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前回のブログ「NO WE CAN’T !」では、世の中にはいかに拒絶型の発想が蔓延しているかについて触れた。
今や基本発想はすべて「NO WE CAN’T !」で出来ているといっても過言ではないというものである。
ただ私は「NO WE CAN’T !」を「YES WE CAN !」と対峙する悲観論として展開した。
確かにそうだ、と思われる事例に事欠かないが、日本語コミュニケーションの世界では、どちらも、これほどはっきりとしたことばが発せられるわけではない。
「YES WE CAN !」も「NO WE CAN’T !」も英語文化圏の発語であって、このような二項対立的な問い詰め方への対応が、われわれの日常性のなかに顔を出すことは滅多にない。
われわれの通常会話の中で「YES WE CAN !」と発信することが滅多にないかわりに、「NO WE CAN’T !」とストレートに発言することもまた滅多にない。
そもそもわれわれは、「YES」も「NO」もはっきりと言うのは苦手である。
「YES」の方は、単なるうなずきの部類であって、明快な意思表示とは認識していない場合が多い。
したがって、「YES」は案外気楽に多発される。
しかし「NO」は、明快な拒絶の意思表示だ。
表面だって摩擦が生ずるのを嫌う風土の中では、なかなか言いにくい。
緊張した空気がただようことを嫌う文化が厳然と横たわっているからだ。
「NO」には「それは何故か」という説明責任が伴う場合が多いから、どうしても緊張感がただようのだ。
20年ぐらい前になるだろうか、石原慎太郎氏と当時ソニー会長だった盛田昭夫氏が共同執筆した「”NO”と言える日本」というエッセイがあった。
バブル絶頂期だった背景もあって、アメリカに堂々と「NO」と云えるだけの実力を示そうというようなナショナリズムを謳ったものだった。
まあ、ナショナリズムはともかく、暗に日本ではなかなか面と向かって「NO」とは云えない文化があることを前提とした主張だった。
日本、日本と言いながら、対立を恐れぬ明快さを求めるという点では極めて西欧型の発想ではあった。
「YES WE CAN !」とはっきり言える文化は「NO WE CAN’T !」ともはっきり言いきれる西欧型の文化とつながっている。
日本型の文化では、たとえ答えは「NO WE CAN’T !」であっても、直截そうは言わない。
「はいよく分かりました。前向きにその方向に向かいます。しかし、私はそう思ったとしても、どこそこの部署にはこれこれの事情があり、昔からのあれこれもあって、すぐに実行されるのは極めて難しい。とりあえず持ち帰って、よく検討し、後ほどご連絡させていただきます。」となる。
出だしは「YES WE CAN」で始まりながら、「BUT」に続く後段は「NO WE CAN’T 」である。
一旦こういう答えが出た後は決して状況が動くことはない。
要はもともと「NO WE CAN’T」なのである。
そこが分からないと鈍感のレッテルを貼られる。
「YES WE CAN」で始まり、「NO WE CAN’T」を含意してあいまいに終わる応答が極めて多いのである。
さて、本気の「YES WE CAN !」を引き出すためには、まず真正面から「NO WE CAN’T !」と発言することから始めなくてはならないのではないか。
まずは「NO WE CAN’T !」をはっきりと明示することの方が、「YES WE CAN !」を言う前に必要なのかもしれない。
「NO WE CAN’T !」と発言する覚悟とエネルギーは、「YES WE CAN !」を叫ぶに要するそれに匹敵する。
ありとあらゆる所に蔓延する事実上の「NO WE CAN’T !」事象を、まずはきっちりと発言し、立場を明快にすることから始めるべきではないのか。
その覚悟なしには「YES WE CAN !」は遠いのかも知れない。
「NO WE CAN’T !」を面と向かって告げる場面を必死で通り抜けてこそ、「YES WE CAN !」にも重みと真実みと、そして人の心を動かすリアリティが生まれてくるに違いない。
私たちは「NO WE CAN’T !」でさえ、おそらくは真実の叫びとして言ってきてはいなかった。
まずは「NO WE CAN’T !」を本気でまっすぐに言ってみることから始めるべきなのだろう。
旧い文化のコンテクストはシンプルではない。
オバマ氏の演説をたとえどんなに名訳であっても、もし日本語で聞いてみたら、同じ高揚感を得るのは難しいのかもしれない。NO WE CAN'T である。
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オバマ大統領のスピーチで有名になった「YES WE CAN !」は、特に目新しいフレーズではない。
例えば、1992年に制定された伊藤忠商事の企業理念は「The ITOCHU Credo」と「The ITOCTU Way」の2つで構成されているが、その「The ITOCTU Way」の3つのフレーズの最初が「Yes,we can.」であった。
和訳はあえて「顧客と共に、前へ」としてあって、直訳ではない。
私はたまたまその策定作業に深くコミットしていたので、制定までの緻密なプロセスについては、実はかなり詳しい。
しかし、伊藤忠の理念体系を解説することが今日の本旨ではないので、それはまたの機会に譲ることにする。
ただ、これを策定してすぐの頃、英国の元宰相マーガレット・サッチャー氏が伊藤忠本社を訪れたことがあり、即座にこのフレーズに着目したという話を聞いた。
サッチャー氏は「これはまさに長年の私のモットーでもある」と述べたというのである。
「YES WE CAN !」は、英語文化圏に脈々と息づいてきた積極果敢なチームスピリッツを鼓舞することばである。
困難にチャレンジするポジティブで力強い姿勢だ。
しかし、反面、このフレーズが長い期間世界で発信力を保持し得ているという事実は、世の中の大勢は逆の発想に充ち満ちているということを意味してもいる。
それは「NO WE CAN’T !」である。
教育現場、官僚組織、政界、地域社会や家庭内でさえ、「NO WE CAN’T !」の方が圧倒的に多い。
企業の意志決定プロセスや、指示命令経路において示される「NO WE CAN’T !」が、いかに多いことか。
そして今、世界同時不況の中、この「NO WE CAN’T !」が猛威を振るって増殖しつつある。
年金記録問題をかかえる社保庁も、公務員制度改革に対する人事院も「NO WE CAN’T !」。
内部留保を大量にかかえる大企業も雇用の確保に関しては、「NO WE CAN’T !」だ。
医師不足にあえぐ病院の緊急患者受け入れ体制は、もはや「NO WE CAN’T !」。
会社の倒産、年収の減少、妻のパート解雇等が重なり、住宅ローンの支払いは、否応なく「NO WE CAN’T !」である。
このところ倒産件数が急増しているが、その原因の一つは、経営者が頑張らなくなってしまったからだという。
民事再生を申請し、再建に向けて歯を食いしばってもう一頑張りしようという意欲がすっかり減退しているのだ。
経営再建に時間をかけるより、在庫や設備を処分して会社をたたんでしまう例が増えている。
こんなご時世だと、頑張ったところで先は見えているから、早めに破産して楽になった方がいいというわけだ。
さっさと「NO WE CAN’T !」とバンザイしてしまうのだという。
日本だけに限らず、世界中がそんな雰囲気に満ちている。
「YES WE CAN !」が輝いてひびく足下には「NO WE CAN’T !」が絶望的に横たわっているというわけだ。
こんな時こそ、それぞれが、せめて一度だけでも「YES WE CAN !」と発してみるべきではないか。出来ればほほえみも交えて。
それは何に対してでも、どんなに小さなことでもいい。一つぐらいはあるはずだ。
あのオバマ氏も、大統領就任式以降「YES WE CAN !」とは言っていない。
就任演説では、「NO WE CAN’T !」に代わって「YES WE CAN !」というべきは国民の番だと、色濃くにじませている。
思慮のない楽観主義だけでは何ももたらされないだろうが、ポジティブな高揚感のないところからもまた、何ももたらされないことは事実である。
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