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鳩山総務大臣がこのところ妙に元気にほえまくっている。
かつて「死刑囚自動処刑システム論」や「アルカイーダに友人が居る」発言でひんしゅくを買った同じ人物とは思えない。
裏に何があるかはともかく、大臣が噛みついた東京中央郵便局舎の保存問題は、郵政民営化論議の時代から議論が続いてきた話ではある。
現在の工事実態をみると、議論の割には意外とあっさりと結論が出たようだ。
いつの間にかファサードだけを残して超高層ビルに建て替えるという最近はやりの案に落ち着いている。
有識者による歴史検討委員会の結論に基づくという、お墨付きもちゃんと付いている。
この種の有識者会議なるものは、私もある自治体の諮問会議メンバーとして担ぎ出された経験があるが、それはもう見事に操られるものだ。
シナリオは当事者側ですでに周到に出来ており、何を言ってもそのコンテクストの中にうまく組み込まれることになる。
「ごく少数のこれこれの反対意見もありましたが、大多数の意見がこういう方向でまとまり承認されました。」と、シナリオ通りに通されてゆく。少なくとも私が担ぎ出された時はそうだった。
東京中央郵便局舎の歴史検討委員会の結論も、おそらくは似たような「デキレース」だったという見方も巷間噂されていた。
最近取り壊しが決まったあの歌舞伎座の再生検討委員会と同じ都市計画の権威が仕切ったという点も、そういった批判がささやかれる元になっている。
さて、背後の手続き論の問題は別にして、あの建物があの地にそっくり残すべき文化財的価値があるのかどうかに議論の主題があることは確かである。
保存論者の意見は大きく二つに分類されるようだ。
一つは、あの建物の近代建築としての価値について。
保存論者によれば、外観や内装の意匠よりは、ムダを排した機能性こそに近代主義建築の価値があるという。
まさにモダニズム建築の歴史的証人としてあの地に保存せよと主張する。
要は見た目ではなく、専門家にしか分からないかもしれないが建築史的価値を尊重すべきだというものだ。
もう一つは、いわゆる建築家を作家・芸術家としてその作品と共にもっと敬えというものである。
日本の洋風建築の基礎を築いた旧逓信省の技師、吉田鉄郎氏の作家としての業績をもっと尊重せよと言う。
そうでなければ、今後、建築家の社会的ステータスは、剥き出しの商業主義の前でますますないがしろにされる、といった主張である。
さて、私の個人的見解の結論を言ってしまえば、あの建物はあの場にそっくりそのまま保存すべきものとは正直思えない。
近代建築物の価値という点から言えば、そもそも1933年(昭和8年)竣工のモダニズム建築を重要文化財として指定できるかどうかという点が、まずは大きく議論の分かれるところだろう。
モダニズム建築の機能美を街並みの景観としてそのまま保存するということ自体、世界的にもさほど共通認識に至っているわけでもない。
ユネスコ世界遺産を眺めてもメキシコシティ郊外の「ルイス・バラカン邸」がモダニズム建築としての数少ない指定例だろうか。しかも、こちらは個人住宅でメキシコの伝統やカラーが融合されたスタイルが高い評価を受けているのだ。
一方、東京中央郵便局舎は事業空間としての機能的近代建築であり、1920年代以降の世界中の事務棟建築物には多くの共通項が見い出される建築様式である。建築家ではない私から観れば、ある意味珍しくもなんともない。
むしろ、近代建築こそがそれまでの伝統的街並みを壊してきた元凶という見方さえある。
もし、一時代を築いた機能性に歴史的価値があるというなら、犬山市の「明治村」に移築して保存する方法だってあった。
「明治村」といっても、いまや大正時代の帝国ホテル旧館や昭和初期の川崎銀行本店も展示済みだ。
丸の内ではすでに旧丸ビルがファサードだけを残して高層ビルがドーンとそびえている。
まあ、中央郵便局舎の外観もあのファサードと景観的に調和させ、復旧中の東京駅等となじませようという計画にのっとって残すのだろうと推測はできる。
ただ、あの旧丸ビルのファサードが残った時も、個人的にはさほどの価値を感じなかった覚えがある。
むしろ、あの旧丸ビルの建設に携わった方から昔お聞きした話を思い出したものだ。
あのビルは、基礎作りから言ってもいわゆる関東ローム層に浮かぶ船のようなもので、大地震でも起きれば実際のところどうなるか分からないと、心配そうに語っておられた。
その有名企業の社長を務めておられた方はすでに鬼籍に入られて久しい。
しっかりした基礎の上に建て直されたはずの新丸ビルの今の姿を見たら、本心から安心されたに違いない。旧丸ビルの外観が消えることにもためらいは無かったはずだ。
日本の明治以降の建物については、そこに集約された日本的技術や素材、単体としての造形的価値、そして街並み景観としての価値等から評価されるのが一般的だ。
その中でも街並み景観という視点にはまだまだ深い議論が必要なのだろうと思う。
札幌の時計台から沖縄の復刻版首里城にいたるまで、その場に行って直に観た時の「何コレ!?」感を味わされる建物は日本中にあふれている。
私たちはいったい、何を規準に何を守ろうとして歴史的建造物を残そうとすべきなのだろうか?
建築物は一つのアート作品として扱いうるものなのだろうか?
そもそも建築家は作家なのだろうか?
そして街並み景観とは、いったい何を指し、誰がどう責任を担うべきものなのか?
そこに経済原理を交えずに議論が可能なものなのか?
東京中央郵便局舎問題があらためて浮上させた問いは、ちょっと危なっかしい感じの鳩山大臣が投げかけた最大の功績かもしれない。
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