マニフェスト論議が盛んだ。
その議論の中に「ビジョン」の話が登場する機会も増えた。
昔から「ビジョン論」が政治論議の場に登場するときのパターンはほぼ決まっている。
政策として具体策や数値目標等が列記されている場合は「その先のビジョンが見えない」といわれる。
定性的目標、例えば友愛云々などを標榜すれば「抽象的で具体的道筋のビジョンが見えない」となる。
定性目標を掲げてから、それに続く具体策や数値目標を整理すると、「そんな議論の積み上げのないビジョンなど実現できるのか」とくる。
多くを巻き込んだ積み上げ型でビジョンをまとめたところで、「リーダーシップが感じられない」となるのである。
批判すること自体を仕事としている人から見れば、「ビジョン」を標的としておけばメシのタネがつきることはない。
長年、企業の理念やビジョンづくりをお手伝いしてきた立場から云わせてもらえば、この種の批判には慣れていて、引出しにある定型化された返答集をくくればたいがいの切り返しは即座にできる。
そもそも「ビジョン」とは何かがはっきりしていないから、「ビジョン」ということばで共有しているはずのイメージが微妙にズレている場合が多い。
賢い評論家は、そのことも充分知っているから、テーマ次第でそのズレを巧みに使いこなすことが出来る。攻めるには便利だ。同じ意味で切り返しにもまた困らない。
さて、「Vision」とは「Visual」や「Visible」と通底することばだ。「見えるように描く」ことが大事だといえる。
この「見えるように」というところが、実はなかなか難しい。
「蜃気楼」も「イリュージョン」も「夢」や「夢想」も、「見えるもの」には違いないが、ここでいう「ビジョン」に当てはめても、有権者や社員に許してはもらえまい。
まず、そこへ到達しようというエネルギーが感じられない。
使命感や責任感からは、さらに遠い感じがするから、政治や経営の世界では通用しない。
したがって、「ビジョン」を補完する概念として「ミッション」や「バリュー」、あるいは「ゴール」などのカタカナ英語が登場したりする。
これらのカタカナタイトルだけでは、本当に分かりやすくなるのかどうかはピンとこないが、実際に具体的文言を当てはめてみると、それなりに理解しやすくなることは間違いない。
一般的に「ビジョン」とは、5年後、10年後の到達イメージを描いたものである。
しかし、「リーマンショックを誰も予想できなかったように、そんな先に何が起こるかなど、神のみぞ知る」とはどこかの大臣が開き直って述べたことだが、この種の反論も結構多い。
確かに、台風と地震が同時に襲来することさえあるのだから、帰納的に積み上げた長期ビジョンを掲げても、本当にそうなるかどうかは誰にも分からない。
だからといって、それを理由に何もしないと云うなら、全ての計画には意味がないということになる。
オリンピックを目指すハードトレーニング計画も、家族旅行の計画ですら、それまでに何が起こるか分からないといわれれば、確かにそうだろう。
かといって、そこに希望を託し、計画を立てる意味がないと云えるのだろうか。
人間は、全てを行き当たりばったりで乗り切れるほど図太くは出来ていない。生きていることの意味を追い求めてきた長い歴史の中に棲む繊細な存在だ。
「ビジョン」なるものを通じて、私たちはある信頼と安定の規範を見たいと思っているに違いない。日々の生活には意味があると認識したいのだ。
アイデンティティ論の視点からいうと、それは自我の統合された人格に接したときに私たちが受ける感覚と通じている。
私たちは、そこに静謐でありながら、なおかつ不退転の覚悟を感じ取り、理屈抜きの信頼を寄せることができるのだ。
つまり「ビジョン」とは、作り方やプロセスや内容にもまして、リーダーの「覚悟を見せる」ことに他ならないのだと思う。
これから起こりうる、あらゆる種類の脅威に対しても、掲げる「ビジョン」の威厳を命がけで守る準備ができているような強い覚悟に出会うとき、私たちは、自分がこういった人格と同じ集団に属していることに共鳴し、感動し、そして安定を感じることができる。
リーダーの人格と一体化した「ビジョン」とは、そういった集団のアイデンティティの中核をなすシンボリックなものに違いがない。
