« 2009年11月 | メイン | 2010年01月 »

2009年12月25日
 パレート最適

パレート最適とは、ヴィルフレド パレートVilfredo Pareto(1848-1923)という、スイスのイタリア人社会学者で経済学者が提唱した概念で、ミクロ経済学やゲーム理論等に登場してくる。

限られた資源(利益)の複数の配分において、均衡がいっぱいいっぱいにとれていて身動きができない状態を指す。

この状態では、誰かの利益を損ねることなしにはいずれかだけの利益を高めることはできない。

ただ、逆にみればこの状態こそが、各々の利益がめいっぱい満たされているとみることもできる。

一見対立関係にありながら、実はその関係の成り立ちこそが各々に最大の利益をもたらしている状態をさすのである。


世の中にはこれが結構多い。

気鋭の科学論学者米本昌平氏の「調査捕鯨は即刻中止すべし」という鋭いコラムに登場したので、ひさしぶりに注目させられた。

「農水官僚は調査捕鯨という小利権を死守し、シー・シェパードなどの反捕鯨組織には世界中から募金が集まり、日本やオーストラリアの国会議員は、IWC総会やシー・シェパードの妨害があるたびごとに自国のために奮闘している姿がテレビに映し出される」状態を指していた。

それぞれが十分な利益を享受しうる均衡状態にあるので、事態が動くことはない。

対立しているようでいて、当事者それぞれが最大の利益を享受しているのだから、むしろ事態は動かない方がいいのである。


自民党政権時代の「野党」「マスコミ」「霞ヶ関」なども典型であった。

政権交代が長いこと起きなかったのは、まさにこの「パレート最適」があったからだ。

今年の政権交代によって、ここからはじき出されてもっとも慌てふためいているのが「マスコミ」である。

米国追随外交を批判していれば済んでいた、パレート最適依存下にあった論調をどう「自律的に」変換すべきなのか?。

いまや「アメリカが怒っている!どうする鳩山政権?!」と叫んだとしても、少しもジャーナリストの批判精神が見えてくるわけではない。

「じゃあどうすればいい?」という問いに自律的な答えを用意しているわけではないのだからさっぱり迫力はない。

パレート最適時代が去って、もっとも困っているのが実は今のマスコミなのだろう。

それに比べると、財務省を中心とした官僚軍団はすでに次の「パレート最適」をリードすべく動き出しているように見える。

政権側がこの巻き返しに抗しうるのかどうか、来年が正念場なのだろう。

こんな時には必ず「天皇」が登場するのも日本の歴史の特徴だ。

よく考えてみると、「秩序」「地域の安定」「抑止力」あるいは「保守」などということばがめざすものとはまさにこのことを指すに違いない。


そしてどんな秩序も、パレート最適も、いつか破局をむかえることになることもまた確かである。

歴史がそれを雄弁にもの語っている。

そして、その事象をすっきりと説明してくれるのがカタストロフィーの理論だ。

安定した均衡状態の水面下で、じわじわと重心移動が進んでいて、ある日突然、反対側の事象の方にポーンと飛んで行ってしまう。

チェンジが起こる。革命が起こるのだ。

そして、この「パレート最適」も「カタストロフィー」も共に数学の関数で説明される。

数学的な明晰な説明はとても心地がいい。すっかり世界を理解したような気になれる。少なくとも私には。

ただし、どんなにすっきりと理解した気になったとしたとしても、「で、我々っていったい何をやっているのだろう?」という思いから抜け出すこともまた出来ない。少なくとも私には。

「パレート最適」はゲームの理論に登場する。有利と不利の選択肢を巡る人間行動の話だ。

これを「ゲーム」と呼ぶなら、我々の行動は全部ひっくるめて「ゲーム」による時間つぶしなのかもしれない・・。

振り返ってみると、今年も「ゲーム」に明け暮れているうちに、あっというまに年末を迎えてしまった。

まあ、「ゲーム」のおかげで、たいくつをしなかった事だけは確かかもしれない。




« 2009年11月 | メイン | 2010年01月 »

投稿時間 : 11:02 | TOP↑