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正月らしい所作に出遅れて、落ち着かないまま気がついたら2月、節分さえ過ぎてしまった。
年末来珍しくバタバタ飛び歩いたり、Twitter(http://twitter.com/Takashift)で遊んでいる間に、時間が飛び去っていったというのが本当のところだ。
TwitterでTLを辿っていると、情報の経過するスピードに圧倒されることがある。
まさに光陰矢のごとしである。
時間についての話には、この光陰と矢は昔からつきものである。
光陰とは昼と夜、要は規則的な繰り返しがあってこそ初めて時間を認識できることを意味している。
カウントが出来る刻みがなければ、我々の時間感覚などとてつもなく怪しいものだ。
だからプリミティブな時代の時間の流れは、季節によって違っていた。
単位となる刻みのほうが伸び縮みするのだから、当たり前だったのだろう。
ゆっくりと大陸を移動する分には時差など感じることもなかったはずだ。
ガレリオの発見した振り子の周期性から振り子時計が生まれて、時間の概念は機械的な刻みに委ねられるようになった。
我々の時間感覚は矢印が指し示す1から12までの数字に依存するようになったのだ。
生理的、心理的感覚よりも物理的な、何か超越的なものに頼らなければ時間を語ることが出来なくなった。
その後生まれた、ニュートンの絶対時間という概念は、ごく当たり前のように浸透し、今でも世界中の常識的時間概念を支配している。
つまり宇宙のあらゆるものは、全く同じテンポで何ものの影響も受けずひたすら時を刻んでいて、始まりも終わりもないという考え方だ。
20世紀に入ってから、アインシュタインの相対性理論によって、早く移動したり、強い重力の場におかれた時計はゆっくり進むことが示されたが、ピンときている一般人は少ない。
最近の先端科学では我々の生活感覚からますます離れる形で、時間が考察されているようで、すでに哲学の領域に入っているようにさえ見える。
逆に言えば、時間にはまだ科学の研究余地が大きく残されているということ。あんまりよく分かってはいないと言った方がいいのかもしれない。
一方、光陰矢のごとしの矢の方は有名な「ゼノンのパラドクス」を思い起こさせる。
飛んでいる矢の一瞬の時間を止めて見ると矢は止まっている。
時間は一瞬の連続だから、一瞬一瞬の静止している矢を辿れば矢は飛ぶはずだ。
しかし、各瞬間の矢は止まっているのだから、止まっている矢をいくら辿っても飛ぶことはできないという話だ。
光陰矢のごとしのたとえは、時間は固まってしまうというふうにもとれるのだ。
子供の頃の私はこの時間というものが不思議でしょうがなかった。
食べたり怒ったり喜んだりしていた瞬間が、あっという間に過去のことになり思い出す対象となってしまうことが不思議で不思議でしょうがなかったのである。
今この瞬間自分の時間感覚で最先端に居るのに、しばらくするとそれは過去の感覚として流れ去って行く。
確か11歳のある日の朝、和式トイレにまたがって目の前の板壁の節目を眺めながら、「この瞬間を一生覚えておこう!」と突然決意した。
その時は想像も出来ない未来に必ずこの瞬間を思いだそうと思った。一種の脳内タイムカプセルを作ったことになる。
そして、数年おきにその瞬間を突然思い出すことになる。
30歳前後までは、その瞬間や板目の節の形やシミ、白い陶器の縁のカーブなど鮮明に覚えていた。
しかし、最近は鮮明に覚えていたという事実を思い出すことはあっても、記憶の中の板目の模様には自信がない。
今年も早かったとか、いつの間にか桜の時期になったとか、あるいは気がついてみたらあれから10年も経っていたという感覚は、同じ周期で繰り返される刻みを頼りに感ずるものだ。
11歳の時の1年と、現在の1年の刻みは同じでも過去の持ち時間に占める割合は圧倒的に違う。
心に深く刻んだはずの脳内タイムカプセルも時間と共に文字がにじんで読み取りにくくなってきた。
光陰矢のごとしの矢が、再びゼノンのパラドクスに迷い込み、固まってしまうことがあるのだ。
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