« 時間感覚 | メイン | アイデンティティの感覚 »
仮説を立ててから具体的作業を組み立てるというアプローチをとることがよくある。
たとえば何かの調査の時などは、やみ雲に調べてから分析をし、そこで発見された疑問を検証するためにさらに調査を重ねるというのでは、時間も費用もかさんでしまう。
そこで、長年の経験と最近の様々な伝聞や2次情報などから、結論のおおよその見当を先につけてしまい、仮説と呼ぶ。
この場合、調査とはその仮説が本当かどうかを調べることを意味する。
したがって設問の設計もしやすいし、調査対象の数や属性も絞りやすい。
結論は概ね仮説に沿ったものになるから、理解しやすい報告書にまとめるのにも極めて効率がよい。
仮説とはもともとは科学の分野で使われる、いわば直感をさす。
ノーベル物理学賞を受賞するようなレベルの科学者は、天恵のような突然のひらめきに導かれたというエピソードに満ちている。
科学者は突然訪れたそのひらめきの実証のために何年もの時間を費やして実験を重ね、世界に認められる論文に仕上げるのだ。
仮説とは、このような天才的ひらめきに拠を置くから、いくら2次情報をもとに推論して組み立てたとは云っても、我々レベルが仮説という語を使うと、どうしても少々傲慢な響きがただようものだ。
私はそのことを強く認識しているので、このことばはかなり注意深く使うようにしている。
仮説に傲慢さが加わると、どんなに科学的にアプローチしたと云ってもそれは単なる偏見となりがちなことも知っているからだ。
この仮説が、高速道路の利用状況予測や、地方空港の乗降客数予測などに適用されると、偏見というより、希望的観測となり、調査を恣意的にそれに合わせてしまうことさえ出てくることになる。
民族学とは、まさにその偏見と希望的観測にみちた仮説から始まったものだ。
西欧の民族が、それ以外の民族よりも優れているのは(18世紀以降のヨーロッパには蒸気機関等自慢の技術的成果があり、民族的に世界の他の地域の住人に優ると信じていた)、何らかの人種的な特徴に差があるはずだという仮説を証明しようとして始まった。
身体的特徴の差異について徹底的に調べ上げた。
その過程では有色人種への蔑視等新たな人種偏見も生まれた。
そして200年にわたる民族優劣の仮説研究の末、行き着いた結論は民族の差異とは文化の差異でしかないということだった。
文化人類学はそこから始まり、代表的文化人類学者であるレビ・ストロースの立ち位置もそこにあるのである。
直線的な進化の過程に関する仮説が生まれた元は1万年前の農業革命にある。
農業と定住がはじまり食料供給の安定化から、定住人口の驚異的な増大が始まったからである。
これを革命的な進化と観たのだ。
そのステレオタイプの直線的進化仮説は300年前の産業革命によってより強固に理論化された。
分業が始まり、専門家が分化され、市場が形成され、再生不可能なエネルギーに依存するようになった。
この直線的パースペクティブから、我々は進歩の過程のどこにいるかとか、この後どこに向かうのかを論じるようになった。
しかし、ようやく分かってきたことは、各民族の位置は進歩とか遅れではなく多様な方向に向かう選択の一つでしかないということである。
例えば、農業に伴う定住者が集中したことを契機に伝染病が蔓延し、時にとてつもない規模での人口減少を伴うことになった。
このリスクはエイズや新型インフルエンザに形を変えて、現代にも依然として続いている。
それに引き替え狩猟民族や採集民族は伝染病が人に蔓延するのを防ぐように出来ていた。
安定した食料や人口の集中を得る事は出来なかったが、疫病の蔓延による家族知人を一挙に失うという悲劇は回避されたのである。
人間の生き方として、どちらが幸せなのかは、にわかには判断しかねる。
それぞれが得るものと失うものについて無意識に別の選択をしたというだけのことだ。
産業革命においても協同家族が分裂、家庭労働は主婦に集中し、個人も生産者であり消費者でもあってかつ家庭人でもあるという立場に自己分裂を余儀なくされた。
物質的な充足と引き替えに、一方で心の充足を失う選択をしたと言えるかもしれないのである。
再生不可能な化石燃料使用の増大も含め、実に多くのものを代償として失う選択をしてきたことに気付いたのはつい最近のことである。
再生可能なエネルギーと自家消費のための生産、そして家族全体が経済単位としてともに働くという前近代の生活スタイルを再選択する人々が「先進国」の中に増えているのも、近代が進歩ではなく選択だったと気付いてからだ。
こうして直線的進化という名の仮説は力を失ったのである。
この偏見に満ちた仮説の一つには、脳の問題もある。
優れた業績を残した天才的人物の脳には何らかの形態的な差異があるはずだという仮説である。
体積、重さ、表面積やしわの数等々、あらゆる物理的形質的特徴が世界的規模で徹底的に調べられた。
養老孟司氏によると、東大の解剖学教室にはいまだに様々な偉人の脳の標本が保管されているという。
これも結論的には何の科学的根拠も見いだせなかったようである。
仮説という名の合理的な推測がいかに偏見と隣り合わせにあるものなのか、我々は深く自己検証する必要がある。
« 時間感覚 | メイン | アイデンティティの感覚 »
