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アイデンティティの問題を理論的に解析しようとするとき、一般的にはE.H.エリクソンが組み立てた体系に依る場合が多い。
したがって、E.H.エリクソンがそうであったように、心理学や精神分析学の識見を必要とする。
例えば人は誰にでも出身地とか、両親やDNAとか、自らでは選択の余地も変えようもない属性がある。
誰しも、親兄弟や、たまたま生まれ落ちた地の言語や文化を自ら選ぶことは出来ない。
一方で、例えば学校の専攻とか職業や結婚相手等、自らの意志によって選択が可能な属性から生じる自己認識がある。
自らの意志と努力で、外国の言語をマスターすることも可能だし、その気になれば自分で職業を選ぶことだって出来る。
この両者の間に生まれる距離感と葛藤をどう克服するかが、人間のアイデンティティに関する最大の問題領域なのだ。
その距離感が少なく、比較的そのギャップに悩まない人ほど、アイデンティティは安定的だと言える。
コーポレートアイデンティティについても、理論的には同じ構図で眺めると分かりやすくなる。
企業の創業の時の経緯や規模、創業者の個性や理念等のあらかじめ決定づけられた属性をまずは明示する。
今ある企業の原点とかDNAとか呼ばれるものだ。それまでに確立している企業イメージであったりもする。
そしてそれとは別に、経営環境の変化を踏まえて今後はこうありたい、あるいはこういうイメージの会社として観られたいという、未来のビジョンを意識的に描いてみる。
それはどんなに難しそうに見えたとしても、自らの意志と覚悟と努力によって実現が可能な世界観である。
その2つの間に生じるギャップが大きければ、アイデンティティクライシスを起こすもとだと捉えられる。
そのギャップをどう埋めて行くかが、アイデンティティ戦略の問題領域となるのである。
私には、アイデンティティ問題を理論的に捉えようとするとき欠かせない学者がもう一人いる。
それは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したオーストリアの物理学者・哲学者、エルンスト・マッハである。
アインシュタインの相対性原理に対する直感的先駆者とも云われているが、我々にとってもっともなじみのあるのは、音速の単位に彼の名前が使われていることであろうか。
私は若い頃、彼の著書「感覚の分析」をこの上なく難解な翻訳本で読んだ覚えがある。
当時の哲学書の翻訳は、何かことさらに難しい漢字や言い回しが多用されていて、そこにこそ学問の権威が凝縮されているとでも言いたげな近寄り難さを漂わせていたものである。
かといって、ドイツ語の原書はさらに近寄り難かったのだから、その難解な文章と格闘するしかしょうがなかった。
で、マッハが唱えていたのは、ものの恒常性を感じるとる感覚の問題である。
一つのもの、例えば目の前の机は分析的に観察すれば、色や素材や手触り、あるいは伴う思い出や様々な感情によって認識されている。
しかし、その机の表面に大きなキズが付いたり、足が一本欠けたりしたとしても、依然としてあの同じ机として認識され続ける。
分析的な要素の集合から見れば、すでに同じものでは無いにもかかわらずである。
つまり、目の前の机を構成する様々な要素、伴う思い出や感情のいくつかが少々変化しても、見慣れたあの机として認識してしまう能力が我々の頭の中には備わっているのである。
その総体として恒常的で変化の緩慢なものに、我々は一つの名前を冠する。この場合は「あの机」だ。
人は、ものの構成要素をその都度分析するのではなく、ひとまとめにして全体的なある実態として考えるのである。
この一つの名前に向かう目的をもった、変化の緩慢な、漠然としたイメージの正体こそブランドを支える構図そのものである。
しかし、一方で人はやはり、そのものが備える色や形や匂いや手触りなどのメルクマールを総動員して分析的に認識することをやめるわけではないのだ。
そして、全体的にバクっと捉えるある恒常的な総体と、細かな要素に分解して捉える要素還元型のとらえかたの間を自由に行き来するものなのだ。
宇宙から見る地球は明らかに一つの球体である。
球体であるという点において、サッカーボールや、ピンポン球とでさえ同類に認識することが出来る。
地球は、宇宙に浮かぶピンポン球のようなものだと云いうるのである。
しかし、我々はいつでも自由にその視点を急降下させることが出来る。
宇宙の高みから、アマゾンの熱帯雨林や、サハラ砂漠の中に一気に分け入って細かく地球の属性を俯瞰できるのだ。
さらに、小川のせせらぎや、小石や、そこで泳ぎ回る小魚たち、河原のこけのそばに咲く可憐な草花にまで肉薄してディテールを確認することが出来る。
そして、そのどれもが、地球の属性なのである。
結局私たちは自ら見たいものを、見たい時に、見たいように見ることが出来る。
この対象に迫るとてつもない人間の能力こそが、アイデンティティを捉える感覚なのだ。
私たちはこの能力を自在に駆使して、ブランドとか、デザインとか、あるいは企業イメージなどという捕まえにくいものを扱っている。
アイデンティティの感覚がマーケティングの一角でこれほど活躍する日が来るとは、かのエルンスト・マッハも、E.H.エリクソンも想像だにしなかったに違いない。
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