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2010年12月08日
 ガラパゴス化

ガラパゴス化ということばがビジネス界で云われ始めて2〜3年になるだろうか。最近ではかなり一般化して使われるようにもなった。

ガラパゴス諸島のような、周囲から隔絶されて独自の進化を遂げた生態系のように、その域内の環境だけに適応して閉ざされた濃い進化を示すことを指す。今やあらためて説明するまでもあるまい。


携帯電話系機器やカーナビなどのように、日本国内の特殊需要に応じて技術的に高度化したものの、国際的な大量需要、低価格需要には対応出来ず、国内だけに封じ込められてしまった状態を指摘することばである。

日本の文化的閉鎖性とか、技術のバーティカルな独占志向、あるいは日本語だけに頼る国民性等々を原因とする一連のネガティブな論調として使われることが多い。最近の国力衰退悲観論を背景として自嘲気味に使われることすらあることばである。


ただ、かつて世界を席巻したカメラや家電、自動車等に施された日本の高度技術が世界の産業界に与えた影響力を振り返ると、閉鎖的文化論だけで片付けられる話とも思えない。

日本の技術はそんなに隔絶された特殊なものではなく、グローバルで普遍的な輝きを発信していたはずだ。

では、なにゆえそんな評価になってしまったのか。

それは、スタンドアローンとして「完結して機能するモノ」としての商品と、一定のプラットフォーム技術の上に通信プロトコールを介して「繋がって機能するもの」としての商品との質的違いが大きいといえるのだろう。

先鋭的な機能を志向する技術は「完結して機能するモノ」の付加価値を高めるのに役だった。
しかし「繋がって機能するもの」はプラットフォームの価値こそが重要だ。したがってプラットフォームの利用量こそがその価値を決める。

技術的な高度性そのものが利用量を阻害する要因であれば、どうあがいても多数決で負けるのだ。

どんなに技術的に優れていようとも、使い勝手が面倒で大衆受けせず価格が高ければ大量には普及しない。

逆に、先にとりあえず膨大な利用量を確保さえしてしまえば、一気にプラットフォームの価値があがり、資金力が生まれ、結果技術的に高度な付加価値開発も可能になる。

事実、Androidを開発したグーグルとiPhoneを開発したアップルが共同で、携帯絵文字の国際規格化を進めているという。圧倒的量を確保した巨大企業が、日本の独自規格を国際規格にしようと動いているのである。

要は、この分野においては技術や文化が問題なのではなく、順番が逆なのだ。


一方、本来得意とする「完結して機能するモノ」の付加価値にしても、中国、インド、ロシア等の市場が主戦場となってからは、事情がすっかり変わってしまった。

「精度や装置はそこそこでいいから安くて丈夫なものがいい」というコンセプトの前では、まだまだ価値観を適合出来ずに呻吟しているメーカーも多い。誇り高き日本の技術者には「品質を落として安くしろ」と云われているように屈辱的に響くらしい。


こうして考えてみると、ガラパゴス化なる現象は文化の特殊性などの話ではなく、市場の超規模化という変化について行けていないだけのことではないのか?

気が付いてみたら市場の規模観がすっかり変わってしまっていたということである。


その前提を押さえておきさえすれば、私はガラパゴス化という名の、ある種個性的な特殊解はもっと評価していいのではないかと思う。

閉ざされた濃い文化といっても、マーケット規模は1億2千万人を対象とする。

10億人以上を対象としない限りはそこそこ成り立つ規模だ。

ガラパゴス化を克服することが重要な分野ももちろんあるが、すべててはない。

例えば原宿界隈で創出される独特のファッション文化は、ガラパゴス化しているからこそ世界の若者をトリコにする。もともと10億人なんかを対象としてはいない。

狭くて濃く、難しい壁に挑戦して達成されたイノベーションを評価することこそが、次なるチャレンジを促すに違いない。

単に、数を増やすだけの技術対応を繰り返していれば、やがては画期的なイノベーションは育たない。

ガラパゴス化なるものを批判的につきつめると、例えば英語以外の言語でのコミュニケーションは意味がなくなってしまう。数が多いという意味で残るのは北京語か、せいぜいスペイン語ぐらいだろうか。


ここで2002年5月の拙稿「コミュニケーション」の一節を紹介したい。
http://www.shift-inc.co.jp/gtl/communication.html

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こういった観点から今の世界を改めて眺めなおしてみると、 「分かり合える」ことが成り立つ同質の基盤は同時に両極に進んでいるように見える。

一つは国際的にどんどん社会が開かれて行く方向である。 同質の基盤が先進国を網羅し、さらに世界のすみずみにまで浸透しつつある。 経済のグローバルな一体化やインターネットの普及とともに、そこでの共通言語基盤は「英語」に集約されつつあると云っていい。

ただし、ここでも歴史は、一方がもう一方を完全に凌駕することなど無いことを証明しつつある。 「英語」自身が世界語として猛烈な勢いで変質してきているからだ。 「英語」がすでに英国ローカルの言語からはるかに離れてしまって久しい。 さらにインターネット上の「E-mail語」としての「英語」は独自の様式を生み出しつつある。 「E-mail語」のルーツは「英語」である、と云われる時期はそう遠い先の話では無いかもしれない。

いずれにしろ、ここでは米国文化の浸透が大きい。 グローバルスタンダードとは米国流のいわばデファクトスタンダードにすぎないという批判も、今や一般的だ。 しかし、批判はどうあれ、グローバルに「分かり合える」同質の基盤はますます進展するに違いない。


同時に進行しているもう一方の基盤の変化は、閉じた社会への志向である。 多数の閉じた系の出現と言い換えてもいいかもしれない。

インターネット上の様々なコミュニティや地域通貨(その地域の有志の間のみで流通する通貨)などの登場が象徴的である。 フランスの大統領選挙で衝撃を与えたルペンの強烈な民族主義や、ウサマ・ビン・ラディンの原理主義の底流にも共通する志向だ。

開放系への生理的な抵抗感は、単なる米国スタンダードへの嫌悪だけではない。 居心地のいい自分たちだけの基盤を守りたいという意志は強い結束と共感を呼ぶ。 永田町や霞ヶ関に跋扈する「抵抗勢力」の本音もここにある。

しかし、閉じた濃い社会へ向かう働きと、開いて薄めようとする働きの同時進行は「コミュニケーション」の本質的働きであることを忘れてはならない。

いくらグローバルな基盤だとしても、もしそれが単なる米国文化スタンダードにすぎないとしたら、それ自身が閉じた濃い系への指向を意味してしまう。
閉じているか開いているかは規模の大小の問題ではないのだ。 一極集中を避ける原理こそ「コミュニケーション」の本質的働きなのである。


人は、あうんの呼吸が通じる閉じた社会の方が居心地がいいに違いない。 しかし、その閉じた濃い社会は放っておくとやがて澱み、退化してしまうことも知っている。 結局は新たな地平へ向かって開いて行かざるを得ないという洞察もまた人間の知恵なのである。

アイデンティティ*をめぐる諸問題も、大ざっぱに云ってしまえば、 閉じた世界観と開放系世界観との葛藤の中に発生するといえるだろう。

繰り返すが、「コミュニケーション」には閉じる力と開く力の両方の働きがもともと含まれている。 なぜそういった働きが生まれるかといえば、 「コミュニケーション」には「ジェネラティビティ」に向かう人類の知恵が潜んでいるからだ。
恐れずに異質さを取り入れ、それと均衡する満足を相手に与えることこそが、停滞を超えて次世代に新しい価値をもたらすことを可能にする。

「ジェネラティビティ論」を理解するための用語としての「コミュニケーション」はこういった意味でとらえておくべきだ。
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ガラパゴス化を克服し開かれた世界へ挑戦する動きと、ガラパゴス化そのものとは、ともに歴史的必然を内包する重要な価値なのだと読み解きたいのである。


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